年回をつとめる意味(法事とは何か)
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お墓に向かい厳かな気分にひたっていたら、何年か前、祖父の初盆の時に、大分県日田市にあるお寺、明円寺のご住職が法事の意味を教えるために配ってくださったプリントのことを思い出した。
法事は亡くなった人のためだけのものではなく、むしろ自分のためのものだという内容。私のようなごく普通の会社員にとっても、とても理解しやすい。
以下、そのプリントの全文。
年回をつとめる意味(法事とは何か)
法事といえば、なくなった人のための仏事と思っている人が多いようです。なかには、勤めておかないと、気持ちが悪いとか、法事をおろそかにすると、家によくないことがあるかもしれない、と考える人もいるようです。
しかし、決して、法事はなくなった人のためのものではありません。生きている私たちのためのものです。
「では、どうしてなくなった人の日にあわせて法事をつとめるのか」と、すぐに反論がかえってきそうです。そのあたりから考えたいと思います。
私たちは、毎日、どのような日暮らしをしているでしょうか。ご主人は、仕事にひきずりまわされ、奥さんは、家事や育児におわれて「忙しい、忙しい」の言葉が口グセになるような毎日ではないでしょうか。近親の死に出会って、厳粛な人生の実装をいやというほど知らされ、自らの人生を真剣に考えた、お互いが時の経過とともに、忙しさの中に自己を埋没させているならば、これほどの悲劇はありません。忙しいとは「心を亡す」という字です。すなわち、仕事に、家事に、育児におわれて自己を見失っているということが、忙しいということです。そんなお互いが、一年、三年、七年という初心を忘れるころに、なくなった先人の日を縁として、家族を中心に知友が一同に会し、如来さまのみ教えに遇わせていただくのが法事なのです。
法事は、あくまで、法を中心にした行事でなければなりません。食を中心にした行司ならば食事です。
法を中心にするとは、私の人生の苦しみや悩みを、み法(みのり)に問いかけ、み法を聞かせて頂き、共にみ法を語ることです。み法に問いかけるとは、み法を体得した人を通して問いかけることです。問いかけたことを通して、み法を聞くのです。蓮如上人は、
同座をもしてあらば、不信なることをもよくと問えかし、信をとれかしとねがうばかりなり。
(『御一代聞書』)
と、いわれています。
法事とは、そのような場です。まず、釈尊のお説きくださった経典を頂き、話し合いがもたれて法事なのです。法事は、私の人生を本当に考えるためのものです。読経は、私がみ教えを聞かせていただくための行為なのです。
私たちが、年回法要をおつとめする意義も、ここにあるのです。世の中には、なくなった人への追善供養でおつとめするような気持ちの人がいますが、浄土真宗では、そうではありません。仏徳を賛嘆し、報恩の誠をあらわすのです。年回法要にあわせていただいたその時に、無常に気づかせていただくのです。後生の一大事に気づかせて頂くのです。そして、せっかく人間に生まれながら、お念仏のお心を頂かず、人生が終わることのないように、お聴聞にはげむ生活に改めていくのです。
古人は「刻苦光明必盛大」といっています。励む人には、必ず光り輝くときが来ます。
さあ、きょうの年回法要には、私の人生にもっとも大切なものはいったいなにかを、よく考えてみようではありませんか。
以上


















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